■
2016年5月28日
オバマ大統領の広島訪問
★すばらしいスピーチ
オバマ大統領の広島訪問という歴史的瞬間を深夜テレビで固唾を飲んで見て
一広島県人としてこだわり続けてきたことがすーっと溶けて行きました。
オバマさんが広島から全世界へ向けて発したスピーチだったと思いますが
17分もの間、ひとことひとことに魂が触れ合う思いがしました。
★私(ランさん5歳の体験)
私は直接、被爆はしておりませんが、広島市郊外で原爆投下のあの瞬間の
ことやその直後に自分がとった行動、その日以降のことをいまでも鮮明に
記憶しております。
ピカッと光って、少ししてドーンという(広島の人はピカドン、略してピカ)
大きな音を近所のかぼちゃ畑で体験したのです。
当時5歳、記憶している年齢としては一番幼かった者のかもしれません。
その日の夕刻から連日、広島市内から逃れてくる人がわが家にも水を求めて
次々とやってきました。
”水をください”
”水をあげちゃーいけん、しぬるけー!‘
と祖父が止めるんです。
道端で亡くなっていく人、みんな赤く焼けただれていました。
近くの海岸には焼けて水死した死体がいっぱい、小学校の校庭では
亡くなった人を集めて焼いていました・・・恐ろしい地獄の光景でした。
勤労動員で市内へ行っていた近所の人たちも亡くなって戸板に載せられて
戻ってきました。
叔母といとこは白血病で後年なくなり、兄嫁の母や兄も爆死、兄は不明のまま。
看護婦経験のあった母は市内の救護活動で二次感染、生涯原爆手帳を携帯して
いました。
その手帳は孫(私の息子)に持たせて亡くなりました。
わが家では原爆の話は禁句、父に叱られるからでした。
周辺で原爆の被害(死者や被爆)がなかったのはわが家だけだったのです。
高校時代の友人でバレーボール部のキャップテンだったT君、
額に大きなケロイドがあった中学担任のキッポ先生ことI先生も
私が大学生の時に亡くなりました。
還暦以降、小学校の同窓会に行くと男性のクラスメイトのほとんどが亡くなり
また、行方不明になっていました。
だれとなく “○○君も被爆しとったけーねー”
語ればキリがありません。
★ 『核兵器なき世界』未来図を
オバマさんが平和祈念会館の芳名録に次のような記帳をされたそうです。
「私たちは戦争の激しい苦しみを体験してきた。
ともに平和を広め、『核兵器なき世界』を追求する勇気を持ちたい」
広島、長崎の被爆者、亡くなった人の思いも
平和を願う全世界の人々の思いもここに集約されて
真の平和な未来が訪れることを願ってやみません。
☆ランさんが平成11年まで作成していたHP(原爆関連)